般若心経の訳仕方

これは私が悟った般若心経です。だからこれが正しいというものではありません。



観世音菩薩と観自在菩薩は違う
般若心経ではこれを間違えるととんでもない訳になってしまう


観世音菩薩(観音樣)は世の中の移り変わりを見極める修行をしている人。その見極め方は世の中の移り変わる波長を感じとり真実を見極めていく人。

つまり、世の中(宇宙も含めて)には目に見える物質から目に見えないものまで全てが回転しておりエネルギーが生じている。その回転する音(波長)を見極めている人をいう。


観自在菩薩は自分自身とはいったい何なのかを見極めている人。つまり、自分自身を知る修行をしている人になる。

これも世の中の音と同様に自分自身を知ることはとても難しいことで、自分としての生き方や、なぜ苦しむのかといったように自分の有り様を見極めていくことになる。


この観世音菩薩と観自在菩薩は両者とも自分自身から生まれた化身だ。ありのままを見極め信じる自分。全ての答えは外にはなく、内なる自分の中にあるってこと。それを化身を通して知りなさいよと教えてくれているのが観音様だと思う。だから自分を念じれば必ず願いは叶うんだよ。



仏陀がまだ仏になる前に苦しみをなくすにはどうしたら良いのか、なぜ自分(人)はこんなにも苦しくなるのか、苦行をしていても苦しみしか残らなく、苦しみをなくすことは出来ないと悟って、生きぬく道を選び瞑想に入った。この瞑想が自分自身を見極める瞑想だったと思う。その自分自身を見極めていく瞑想をしている時に自分を通して宇宙を悟ったのだ。これが因果の道理。自分も宇宙も同じだと悟ったのだ。


なのに今だに苦行をしている人がいる。仏陀が苦行の果てには苦しみしかないと悟ってくれたのに、なぜ修行者は苦行に入るのか?生きていることが苦しみなのに(四苦八苦)なぜ?
それはこの般若心経を悟っていないからだと思う。


大乗仏教になって仏陀の教えの中にある涅槃について書かれたものをまとめて作られたのが般若心経だが、それを訳したさいに観自在菩薩を観世音菩薩と同じに捉え訳してしまったから今に至る般若心経の翻訳が誕生してしまったんだろう。


従って、

『観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時』とは、「自分自身を知る(見極める)深い修行をしている時」と訳す。



つづく

#般若心経